今、「生きる」をやめたい、あなたへ。
最初に申し上げますと、今回のブログのテーマは、
自死をおすすめしない理由。です。
※以下は、私が過去実際に経験したことから思う内容なので、あくまで個人の感想や感覚です。
さて、いくつかの宗教でも言われているように、
自分で死を選んだ人は天国に行けないとか、地獄に行くとか、成仏できないとか。
それはどうなのか、死んだことが無いので分かりませんが、
いわゆる、「地獄」って、こういうことなんだな。ということは分かります。
何度かInstagramでの投稿やインスタライブでお話したかと思いますが、
20代初めの頃、本格的に自分から死を選んだことがありました。
あれはもう、いわゆる、「今でしょ」的な衝動的な判断ではあったので一番危険なパターンだったのですが、
ドアノブに縄だったか、縄状にした布だったか、、、まあそれで首を吊って静かに逝こうとしたわけです。
延べどのくらいの時間が経過したかは分からないのですが、
最初は物理的に痛いし苦しいし、「でも生きていたくない、これで全部終わりにできる。」
みたいな気持ちが優っていました。
徐々に酸素濃度が下がって、血流が滞り四肢は痺れ、頭部への圧で視界もチカチカし、思考も五感も、ボワーっと不明瞭になってきましたら、なんとなく、「気持ちいい」みたいな感覚になりまして、
そしてここで、「地獄」を体験したのです。
それは、「走馬灯」です。
「もう、生きていたくない。」という強い想いとは裏腹に、どこからかき集めたのか分からないような、それまで思い出したくても思い出せなかった、その存在すら忘れていた、「幸せな記憶」が、8ミリカメラで撮った情景を下手な編集でまとめた映像のように、もうほとんど黒紫色に曇っているはずの視界に、バーっと広がったのです。
その映像は、とても美しく見えた記憶があります。
映像を見ながら、
あそこにもう一度行っておきたい。
あの人にもう一度会っておきたい。
あの人にはまだお礼を言えていなかった。
もう一度ハッピー(当時飼っていた犬)やぐり子(当時飼っていたウサギ)に触れたい。
こんな想いが瞬間的に心の中でこだまするように響きました。
そして、
「あれ?まだ、死ねない…。やっぱり死にたくない。」
と思ったんです。
しかし、もうそこまで行っちゃうと、自力で死に向かう体を止める力は残っていないんです。
自分から始めたことなのに、自分では何を思っても、後悔しても、取り返しがつかない。
「やっぱり嫌だ、間違えてた、まだ死にたくない。」と、心だけが、もがき苦しんでいました。
そうか、これが、地獄なんだ。そう思いました。
人から何をされたり、言われたり、自分を責め続けたり、色々と辛い経験はあったとは言え、
あの時ほど、自分で自分を惨めに感じたことはありませんでした。
心の底から自分のことを、「お前はなんて可哀想な奴なんだ」と思うなんて、
「私が悪い」と自分を責めることよりも何倍も辛いことです。
「生きたい」という想いと、壮絶な後悔の念に両手を引っ張られ、
私は自分が死ににゆく感覚を俯瞰しながらも、
心が真っ二つに引き裂かれそうになっていました。
そしてついに、その走馬灯もプツプツと途切れるように目の前から消えかけ、全身が燃えるような感覚になりました。多分、それは死ぬ直前だったのかもしれません。
その時、遠くからかすかに聞こえたのが、母の叫び声でした。
ふわん、ふわん、という感じで耳に響いてきたあの叫び声は忘れられません。
寸前のところで母が発見して、私を助けていたのです。
母は、猛烈に泣きながら私を抱きしめたり、揺さぶったりしていた記憶があります。
生きているのか、生きていないのか、すぐには分かりませんでしたが、
「良かった、良かった…。」という母の声で、
「ああ、助かったんだな。」と思いました。
と同時に、母には、大変なものを見せてしまった。という申し訳なさと同時に、
母にすがりつきたい気持ちが湧いて出て、涙が自然と出てきました。
本当に決行するほど、あれだけ、「生きていたくなかった」のに、
「助かった」と思う私がいることに、私は驚きました。
でも、もうあの地獄は体験したくない。
もしも、本当に命絶えたとして、その後もあの地獄が続くぐらいなら、
「死んだようにでも、生きていよう。」
そう感じました。
その後も、実はさらにしんどいこと、死を考えたこと、何度かありました。
またやってしまいそうな衝動に駆られたこともあります。
ただ、「あの地獄だけは、勘弁だ。」という想いが、
私をあの衝動から救ってくれるという不幸中の幸いな現象も体験しました。
ちなみに、現在はおかげさまで、全然、死にたくないです。
焦って死ぬぐらいなら、死ぬまで生きます。
ただ、私も、やっとここまで来れたな、という感じですので、今生きることがしんどくて仕方ない方、焦ることはありませんからね。
さて、
たまたま、偶然、私は命絶えることはなく済みました。
ですが、未だに多くの老若男女の方々(若くて9歳以下も含む)が、ここ数年で言えば年間2万人以上、自死で亡くなっています。
未遂者を含めると、その何倍にもなります。
さらに、今年の10月までの累計では、
既に、17,219人が自死で亡くなっています。
これは警察が遺体を発見した場合のみの数ですから、実際は毎年もっと数字は大きいのかもしれません。
ちなみに、去年の10月までの人数より、今年は160人も多くなっています。
数字が大きいと麻痺してくるかもしれませんが、
160人と言えば、1クラス40人いるとして、4クラス分の生徒がこの世から去る、
という規模で違います。
そして、その一人ひとりには、多くの先祖の命が繋がっての命が、未来への可能性が、宿っていました。
とは言え、私は自死された方を責めることはできませんし、するつもりもありません。
なぜなら、そこに至るまでの千差万別の背景、苦しみ、葛藤があったと考えるからです。
しかし、自死を肯定もしません。
それは、あまりにも自死は、地獄だから。
ただ、既に亡くなっている方々がもし、まだあの地獄の中にいるとしたら、
その、世にも美しくも切ない思い出は、名残惜しいだろうけれども、
どうかもう手放して、逝って欲しい。
それを祈るのみです。
新型コロナの影響、先の東日本大震災の影響を始め、いじめ、虐待被害、性被害、
パワハラ、モラハラ、DV、経済的困窮、孤独感、焦り、
痛みから逃れたい、精神疾患による症状、PMSやPMDD・・・
などなど、誰もに一人ひとり違った、
「もう生きていたくない」という想いに悩まされたり、
その想いが衝動的に湧き上がることは、あるものです。
ですが本当に、
自死、それだけはやめたほうがいいよ、
と言いたいのです。辛いから。本当に。
「家族が悲しむから」とか、「遺された人のことを考えて」、「命は大切にしなきゃ」。
そういう言葉は、正しい気がします。
でも、いざって時には、どれも頭では分かっていても、止められなかったりするのです。
しかし、途中で死ぬことを止めたくなっても、手遅れだったりもします。
家族や親戚、友人知人などに自死された方がいらっしゃる遺された方々は、必ずと言っても過言ではないほど、故人の生前に自分が何かできなかったか?というようなことを悔やんだり、自分を責めたり、故人に見捨てられたと感じ悲しむこともあるでしょう。
遺された方々にどうしたらいいのか、確固たる正解を、私は持ち合わせていません。
なぜなら、遺された方々もまた、お一人おひとり、違った人生や想いがあるからです。
ですが、故人となってしまった方々の中には、私のような体験を通過して命が絶えた方、という場合も多いのではないか?と想像するのです。
とすると、「もっと生きていたかった」と、最期の最期には、思ったはずです。
ご遺族や遺された方々には、それを伝えたいと思います。
最期の最期は、「死にたい」と思ったわけではなく、美しい思い出を抱えて地獄を見たと思います。
そのことだけは、故人を慰めてあげて欲しいのです。
繰り返しますが、
あんな地獄を見るぐらいなら、死んだようにでも、生きていたほうがマシです。
「良い思い出なんかないから大丈夫、死ねる。」と、思うかもしれませんが、
そう思っていた私でも、違いました。
脳が最期に見せてきます、どんなに些細でも、幸せだった瞬間を。
それは、死んでしまうと、
もう手放したくないのに、
決してもう手が届かないもの。
に、なってしまいます。
シンプルに、何も、できなくなります。
これと、「楽になる」とは、別物です。
無理に止めるとやっちゃいたくなるのが人間の心理ですから、
無理に止めはしませんが、
間違いないのは、自死はやめた方がいい、ってことです、本当に。
意気揚々と、「生きよう!」なんて言いません。
兎にも角にも、皆さま、
今日も、明日も、
「とりあえず、生きましょう。」
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