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「うつっぽい時」に楽になるための、7つのこと。


「うつっぽい。」そんな時に気付いてもらえたら、楽になること。


そのようなテーマで、インスタグラムで投稿させて頂きました。そこでは7個のポイントをそれぞれ一言だけでお伝えしましたが、今回のブログでは、7個のアイデアに至った、私なりの背景、解釈、考えや想いを一つひとつ、お伝えしようと思います。

※長いので、ぼちぼち、お読み下さい。

 


たまには、


何も無い日が、


あってもいい。




スケジュール帳がびっしり埋まっていないと不安になり、そしてその予定たちを完璧にこなせないと、「失敗した」と自分を責める。そのまま気付けば、次に、そのまた次に、何をすべきか。そんなことを常に考えては、実は息切れしそうになっていた。

そんな時期を突っ走っていた矢先、ある日突然に、私は「うつっぽく」なったのです。

自分を褒めたり、認めたり、なぐさめる時間を、忘れていたのです。

その時間の大切さに慣れるには時間がかかるけど、後に、現に今も、一番必要な時間であると分かってからは、とても楽になりました。

だって、たまには何もしない日があっても、誰も怒らないし、一番怒って、責めているのは、自分自身だったからです。

少しぐらい、ぼーっとするひと時や、やるべきことから外れて何かに夢中になれるひと時、或いは「何もしない」という一日があったって、私たちに怒られたり責められる必要は、ありません。

 


主語は、「自分」でいい。




私は物心ついた頃より、いつも家族を、友人を、たまに居合わせた人さえも、知らず知らずのうちに「自分以外の人」を最優先にして気遣い過ごすことが、クセになっていたのです。

でもこれ、一見、「周りを大切にしている」ように思えるけれど、実際のところ、

「みんなの機嫌を損ねるのが、怖かった。」

そういう自分の恐怖や不安を紛らわせるための過ごし方だった。そしてそれが行き過ぎると、自分てものを置き去りにしてしまう場合がある。と、ある時になって、気付けたのです。

なぜ気付けたかというと、それこそ「私はうつになっていたんだ。」と自覚した時には、肝心な自分自身の機嫌や感情に、かなり鈍感になっていたからです。

私は、悲しいのか。辛いのか。悔しいのか。羨ましいのか。虚しいのか。もちろん喜びや楽しみすら、蒸気で曇った鏡を覗くかのように、イマイチ分からなくなっていました。

この、分からない感情たちに振り回されるって、結構、しんどかったです。

原因となる感情が分かれば対処を探せるけれど、その原因が分からないのですから。

なので、それからは意識的に自分自身の感情や意思を優先して拾ってあげようと試みました。

すると、とてもシンプルなことに気付いたのです。

そうです、「この手も、足も、目も、耳も、顔も、感覚も、全部、自分なんだ。」ということに。

つまり、無意識に私の体は、私=「自分」を主語に生きていたはずなんだ、と。

でも、心がそれを忘れてしまっていては、心と体が切り離されて、心だけが、時に激しく濁った濁流に飲み込まれ流されてしまうこともあるのです。

「自分」は、どうしたいのか?

「自分」は、どう感じるのか?

「自分」という主語のもとで、私たちは心も体も生かしている。それは何より忘れず大切にして欲しい問いと自覚だと思います。

それができないで、どうして私たちは周りの人に共感し、大切にし、支え合い、愛し、生きていけると言うのでしょうか。難しいことのように聞こえるかもしれませんが、原理は至ってシンプルなことだと、今の私は感じています。

 


自分と、他者は、


違って当たり前。




言われてみれば、そりゃそうだろうよ。と、思うことでしょう。でも、これは実は多くの人が、そして時折、私自身も忘れがちなことなのです。

人間ってつい、これまでに自分の中に培ってきた価値観や尺度、道徳観などの、いわば、「マイルール」に縛られすぎて、あたかも他者までもが、自分と同じマイルールに沿って生きている。さらに行き過ぎると、むしろそう生きるべき。とすら感じてしまうことがあるのです。

これは、大きな間違いです。

そして、これを忘れてしまうと何が起こるか。「不公平だ」という感情が芽生えます。

なぜなら、「(同じルールの上で生きているはずなのに)なんであの人は私より〇〇なの?」と、考えが歪み始めるからです。

違うんです。そもそもみんな一人ひとり大なり小なり違う、それぞれのマイルールの上で生きているんです。

だからこそ、「人と自分を比べてはいけないよ。」という言葉が出てくるんだと、私は思います。

だってそもそも、同じ土俵、スタートライン、全ての前提が同じでないと、比較なんてこと自体、できないのですから。

自他共に、互いの違いがあることを前提として生きること。それを意識することだけでも、他者だけではなく、自分を知れることにも繋がりますので、とても楽になると思います。

 


自分の命の意味も、価値も、


今すぐ求めなくていい。


そんなものは、勝手に後からついてくる。




私はよく「うつ真っ盛り」だった時、こう思っていました。

「私に生きる価値など無い。だから、生きる意味なんか無いんだ。」

それはそれは苦しく理不尽な、自分に対する言葉と思考の暴力だったなぁ。と、今振り返って思い出します。

まず、価値とか、意味とかっていうもの。それは人間が、「後付け」で定めるものです。

ですから極論、私たち人間の命に価値や意味があるとすれば、それらが失われた時に初めてそれらが分かる。というか、第三者が勝手に各々の尺度で判断し始めること、とも言える。そう思うのです。

例えば、『ひまわり』などで有名な画家、ゴッホ。彼は死後にその作品と共に、その人自体が評価された人物と言えるでしょう。

彼は生前、双極性障害(躁鬱病)又は、境界性人格障害を患っていた可能性があり、時には自らの耳を切り落とし、自殺未遂の経験もあり、実際の死因も自死です。

それらの状況を想像して考えると、彼は、彼自身の命に対しての価値や意味が、胸を張って「ある!」と感じながら生きていられたのだろうか?私は、そうでもなかったのではないかと想像します。むしろ、相当に苦しんで生きたのだろうと思います。(画商であったゴッホの弟、テオだけは、兄のことを生涯信じ、経済的にも多大に支え、高く評価していたそうですが、兄が亡くなって半年後に33歳という若さでこの世を去りました。)

ですが、ゴッホの遺した作品は時を越えて、今尚、高く評価され広く愛されています。彼の命があってこその作品、つまり、彼の命に価値や意味を見出したのは、私たち含め、その後にワラワラと現れた第三者たちなのです。

この例で考えてみても、偉業を成し遂げたとされる人物でさえ、精神的に苦しみ、自ら命を断つ結末に至る人生を送っていた。だとしたら、私たちは、どうでしょう。

淡々と、静かに、ただ平和と平穏を求めて生きる私たちは、ゴッホのような絵を描くことは、できません。

だからと言って、生き続ける価値も、意味も、無いのでしょうか?違います。私たちの価値も意味も、私たちが決めることではないし、わざわざ考えなきゃいけないことでもないのです。

生きる価値、意味。シチュエーションによっては、それらを考えてモチベーションに変化させることも出来るでしょう。それはそれで良いのです。

ただ、考えすぎると、答えは一つ、「回答無し」なので、病みます。

だから、私は考えないのです。

自分の今日一日、今この瞬間を大切に、丁寧に扱ってあげながら生きる。それで十分なのだと、私は思います。

 


「関係性」よりも、


「居心地の良さ」で、


一緒にいる人を決めたほうがいい。




人間関係には、様々なカテゴリーがありますよね。例えば、家族、友人、旧友、恋人、先輩・後輩、同僚…。さらには、夫、妻、子ども、親、兄弟姉妹など、細分化すればキリがありません。

問題なのは、そのカテゴライズされた「関係性」に縛られることで、逆に生きづらくなってしまう場合があるということです。

実は過去、私はこう思っていました。というか、知らないうちにそう思わされていた、と言ったほうが正しいかもしれません。

「家族なんだから、大切にするべき。」

「親なんだから、感謝するべき。」

「友達なんだから、合わせるべき。」

「彼氏なんだから、良くしてあげるべき。」

「先輩なんだから、言うことを聞くべき。」

これらは概ね、間違ってはいないと思います。ただ一部、間違っているのは、「べき」という部分です。「こういう関係だから、〇〇すべき」というのは、違います。

自然なのは、大切な人だからこそ「自ずと」優しくしたいし、共感したいし、感謝が湧くし、尊敬できるんです。大切な人っていうのは、要するに自分にとって、「居心地が良い人」だから、大切になるのです。

とはいえ、です。自分が居心地が良いからって、特定の人を大切にするのは、自分勝手なのではないか?と、自問自答したこともあります。

でも結局、人間は皆、一緒にいる人を無意識にも、「居心地の良さ」を追求しながら自ら選び、共に生きています。だってそうでもしなきゃ、もしも自分を傷つけると分かっている相手であろうと、「家族だから、夫婦だから、恋人だから、上司だから、友達だから」と言って一緒にいたら、自ら傷つき続けることになるからです。それは危険だから、居心地の良い人といようとしているだけなのです。

なので、関係性よりも大事なものがある。私はそう思うわけです。

「類は友を呼ぶ」とはよく言いますが、「居心地の良い関係」は、その穏やかな波紋を広げます。逆も然り、です。

自分を大切に生きるには、言葉にならないような、もうそれこそ感覚的な「居心地の良さ」を優先した人間関係の中にいた方が、きっと楽に過ごせると思うのです。

 


できないものは、できない。


できるように努力してもできない時は、誰かに力を借りてもいい。


借りた力には、感謝を返す。




私がかつて良くない方向へと限界突破した原因の一つに、「自分の限界値と向き合うことをしなかった。」ということがあります。

当時は若いなりに、自分の可能性や将来の夢、理想のために全力で走っていました。それは、ある面では美しいことだとも思います。

ただ、努力するにしても、その時点での自分の限界、限度、キャパが分かっていないと、空気を入れ過ぎた風船のように薄く脆くなり、いつか割れてしまうのは、心も同じです。

全てが完璧で、なんでも自力でできる人間。そんな人、いないのです。それを私たちは忘れがちなのです。

この現象は、「私は完璧で、なんでも自分でできちゃうのよ!」と思うわけでなく、

「私はなるべく失敗せず、なるべく自力でやり遂げなければならない。」

そんな思い込みが、いつしか私たちに刷り込まれながら育った結果。そのように思うのです。

この思い込みは、是非、可燃ゴミの日に出しましょう。リサイクルできませんので。

そもそも、私たちは完璧ではなく、数え切れない程にできないことがあるから、代わりにできる力を持っている人がいてくれて、互いに補填し合うことで社会は、世界は、回っています。

例えば、この身一つで今から車一台製造せよ。と、自分に言い聞かせてみてください。

まず無理、ですよね。製鉄から自分でやらなければなりません。一生かけても厳しいでしょう。

それを生活レベルに置き換えて考えてみると、子育ても、仕事も、全部一人きり、ってのは、やっぱり難しいのです。

「無理しないでね」、ではなく、「無茶するなかれ」ってことです。

ちょっとの無理なら成長の種になる。

だけど無茶は、万病の元。

人は人を頼り、感謝を分かち合う。その方が社会はもっと滑らかになるはずです。それが健全なことだということに気付けば、「お願いします」「ありがとう」その二言で、自分自身も、周囲の人も、延いては社会もきっと、もっと、楽になる。と、私は思います。

 


晴れた日こそ、昼寝して、


雨の日こそ、雨に濡れてもいい。




よく、うつ病とか、「抑うつ症状」を伴う病気や障害になりますと、「適度な運動を」「日光を浴びよう」みたいなアドバイスをされることがあると思います。

それは確かに、症状の緩和や生活習慣の改善につながる策の一つであるとは思います。

ですが、あまりにも規則正しく、健やかに、まるで学校の校訓を遵守するかの如く意識しすぎて生活してみると、逆にしんどくなってしまう場合もある。と、私は思っています。

というのも、私自身がそうだったのもありますし、過去に病院で出会った「うつ仲間」みたいな方々も口を揃えて、「逆に、無理。疲れる。それが出来たら、もう病院来てないし。」と言っていた記憶があるからです。

朝決まった時間に起きて、日中適度に活動をし、夜は眠る。そんな規則正しい健やかたる生活は、実は人によっては結構ハードルが高いものです。できる時になったら、やればいいんでないかい?と、思ったりもします。

そこで、逆転の発想をしておくことをお勧めしたいし、自分自身にも言い聞かせています。

晴れの日だからと言って、無理に散歩に出かける必要はない。あえて、カーテンからこぼれ出る柔らかい日差しを楽しみながら、昼寝したって気持ちが良いもので。

雨の日は、頭が痛くなったり、心がザワついたりもするけれど、だったら思い切って傘を持たずに外に出て、雨粒を浴びてみる。そうしてみて、寒くなったらお風呂に入って、食べたいものを食べて、身体が芯から暖まる感覚を思い出す。そんなきっかけにしたって良いのです。

「普通、こうした方が良いらしいから。」という通説は、「今の」自分にとっての幸福の感度に合っているのだろうか?もしそうでなければ、一体どういう状況が自分にとって穏やかな幸せを享受できるものなのか?それをちゃんと考えてあげることは、楽に生きていくために一番大切なことなのかもしれない。と、私は思っています。

 

さてさてさて!

随分と説明というよりも、講釈を垂れてしまったようで長くなりましたが、

根気よくここまでお付き合い下さりまして、本当にありがとうございます。

私の解釈や考え方、捉え方は、たった1/8億4500万のものですので、

あくまで、「へぇ、こんな考え方する人もいるんだね。」ぐらいに思ってくださるだけで、至極幸いです。

 

それでは、皆さま、うつでも、うつっぽくても、ちょっと疲れ気味でも。

「とりあえず」生きていきましょう。

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