自己肯定感が爆上がりした理由。
以前は、「自分から死なない方がいいよ。」というお話を書きましたが、
今回は、「自己肯定感が爆上がりした理由。」について書きたいと思います。
あらかじめお伝えしておきたいことは、
これからお伝えする文章に、綺麗事は一切、出てこない。ということです。
なので、逆に気楽に読んでみてくださると嬉しいです♪
さて、結論から言います。
「自己肯定感が爆上がりした理由。」それは、
社会福祉士、という国家資格を取得したこと、でした。
では、そもそも、なぜ私が社会福祉士を取ろう。と思ったか、というと。
「1個で潰しが効く資格を取るため。」でした。
つまり、シングルマザーの私ひとりの力でも、娘を食わしていくためです。
とは言え、私は大学を卒業しています。
となると、「大卒があるんだから普通に就職すればいいのでは?」
と、言われたこともありました。私自身もそれは考えました。
が、当時の私には、一つの高い壁があったのです。
それは、「大卒なのに、数年と続いた職歴が無い。」ということです。
大学を卒業後、
新卒で機械メーカーに就職したものの、「うつ」で1年足らずにして退職してから、
※会社が原因ではありません。
一人暮らしでひきこもり、アルバイト、実家でニート、入院、
また、ちょいちょいアルバイト・・・
からの、結婚・出産、すぐ離婚ドーン!という、不思議な流れを歩んでいたので、
「職務経歴書」たるものに、何も書けやしないわけです。
これについては、人材系の企業、計3社に赴いた際に、
「職歴がないと…。なかなか、お子さんをお一人で育てながらフルで働ける会社というのは…。」
と、同じことを3社ともに言われたので、「やっぱりダメかー。」と、実感しました。
パートを掛け持ちすることも考えましたが、人間関係が煩雑になると、
「また病気の症状がぶり返すのでは?」という不安があり、
1カ所で安定した収入を得たい。当時はそういう想いがありました。
というわけで、さてはて、どうするか?
よし。
国家資格を取ると同時に、もう一度、「新卒枠」をゲットしよう。こう考えたわけです。
じゃあ、何を取るか?
手元に残っているお金から逆算して考えました。
「働かず、1ヶ月10万円で生活し勉強に集中するとしたら、リミットは1年間。その期間で取得できる国家資格は何か?」
それを探していた時、偶然、ひとり親世帯に向けた福祉の欄を読むために開いた、自治体の市報に、「社会福祉士必須」と書かれた臨時職員の募集枠が目に飛び込んできたのです。
「社会福祉士って、なんだ?」と思い、調べました。
最初は、
「うーん、どうも、福祉の相談員のプロ、的な?それなら、いけんじゃない?」
ぐらいの認識でした。確かに前半部分、これはあながち間違ってはいません。
が、「いけんじゃない?」という認識は相当甘かった、というか、舐め腐っていたな、と。
後々、勉強量にビックリして卒倒しかけたのですが、
最初に、「いけんじゃない?」ぐらいに軽く舐めてかかっていたからこそ、ポッと一歩足を踏み出すことができたのかもしれません。
ちょうど良いことに、私の卒業した大学の学部であれば、あとは専門学校ならば1年通って単位を取ることと、国家試験を受けるだけでいい。と分かり、「はい、これ受けます。」と、決めました。
そうと決めたら、やることは一つ。
娘を保育園に預けなければ。ということです。
・ひとり親家庭であること
・学生であること
この二つで認可保育園に申請する点数は足りるかな?と考えました。
それについて役所の窓口で相談をしつつ、保育園の種類やひとり親への福祉の説明を受けながら、なぜか突然、涙が溢れ出てきたことを覚えています。
多分、内心はとても怖かったんだと思います。
子どもをひとりで育てていく生活を初めてまだ1ヶ月足らず。
その不安や疲れだけでなく、
もしかしたら私はこれから、相当大変なことにチャレンジするのかもしれない…。
そんな不安と怖さです。
「なんで、こんなことになっちゃったんでしょぉぉ〜〜・・・。」とか言いながら、
突然泣き出した私を前に、それこそ、「社会福祉士」を名乗る相談員さんが、
「大丈夫、大丈夫。使える福祉は全部使おう、なんとかなる。」と、励ましてくれました。
そして保育園の申請期限まで残り1週間というところで、ギリギリ申請セーフ。
次いで、入園できるのか分からぬまま、専門学校の入学試験を受ける必要がありました。
私が通うことにしたのは、新宿にある、首都医校という専門学校です。
学校見学の申し込みをして、初めて学校の中に入った時、すでにビビっていました。
(なんだ、このオサレすぎるビルは…。)
そのビルには、上から「東京モード学園」「HAL東京」「首都医校」と入っていたので、まぁカオスな雰囲気、若い子ばかり。東京生まれのくせに、まるで初めて新宿に来たような感覚でした。
その見学の際、なんだか偉そうなおじさんが案内してくれまして、その方が、「せっかくだから」と、普段学生が入れない最上階の展望室に入れてくれたのです。
子どもを親に預けるために、夜しか見学に行けないということを伝えており、その時間も融通してくれたあの方は、誰だったのでしょう。
それはそうと、その展望室に足を踏み入れた瞬間、脳天から爪先まで、鳥肌が立ちました。
心底、感動したのです。
私の目の前に、とんでもなく素晴らしい夜景が広がっていたのでした。
「離婚まで大変だった、ひとりでやる、と決めるまでよくやった。きっとこの景色は、そのご褒美だ。」
そう感じました。
運よく晴れ渡った夜の空に、果てしなく続くキラキラが、
「がんばれよ。」
と、つぶやいてくれるかのように、瞬いていました。
あれほどまでに感動する夜景は、恐らく最初で最後だと思います。
その後、入学試験(SPIみたいな一般常識と小論文だったかな?)を受け、入学が決まりました。
それからやっと、念願の保育園の入園許可が下りました。
この一連は、スタートラインに立つまでの一歩です。闘いは、それからでした。
4月の専門学校入学と同時に、娘は1歳で保育園デビューです。
当時の生活リズムはこんな感じでした。
5時半起床
↓
7時15分までに登園
↓
8時までに登校
↓
16時半まで学校
↓
18時に保育園お迎え
↓
21時までに寝かしつけ
↓
22時まで家事
↓
2時まで勉強(夜泣き対応しながら)
つまり、学校以外で勉強できるのが4時間しかありませんでした。
その代わり、寝る時間は3時間半 + 登下校の電車の中で立ちながら寝る。
そんな感じになりました。
なぜ睡眠時間を削ることになっちゃったかというと、
「1年もあるし。」
当初そう考えていましたが、蓋を開けてみれば、国家試験の日程は翌年の1月末。
勉強できる期間は正味9ヶ月しか無い!!ということに気付いてしまったからです。
(いや、気付けて良かった。)
でもって、科目が19科目。これ、実際やってみると多いんですよねぇ。
今となってはこの量に感謝ですけれども。いや、しかし、多いよねぇ。
さらに大事なのが、
ただ学校に通っていれば、国家試験を受けられるわけではなく…。
そうです。「単位を取らなければならない」=「定期試験に落ちたらアウト」なのです。
一回でも定期試験を落としたら、もう国家試験を受験することもできないのです。
※試験を練習として受けることはできても、結果は反映されません。
もちろん、全科目、定期試験は何度もあります。
心の中では日々、西新宿の歩道橋の上で、ムンクのごとく叫びまくりです。
(聞いてねぇよぉぉぉーーーー!!!)
ちなみに、ご参考までに社会福祉士の試験についてですが、
・150点満点中、その年の合格ライン以上の点数をとること
・合格ライン以上の点数が取れても、1科目でも0点があれば不合格
・合格率は20〜30%(年度によりバラツキが大きい)
内容的には、とにかく法的な知識が多い。
謎の人物や年号の暗記ものが多い。
超苦手な数学みたいな統計学もある。
医学の知識もある…。
なにより、教科書と過去問を毎日持ち歩くのが重すぎて肩凝る。
ノートはこんな感じばっかり。
↓
はい、とにかく、勉強あるのみ。でした。
明らかに、大学受験の5倍は勉強したと思います。
ここで、「赤ちゃん育てながら勉強するの、大変だったでしょ?」と、よく問われますが、
ええと、・・・死ぬかと思いました。(白目)
しかし大変だった反面、
これ以上ないでしょう!!という頑張る動機が、いつも隣にいてくれたことは確かでした。
娘には、超絶・感謝です。
娘がいなければ、国家資格など取ろうなんて思いもしませんでしたし、彼女が将来食いっぱぐれないためなら、私は死ぬ一歩手前までなら頑張れる。
それほどのモチベーションを与えてくれたのもまた、子どもであり、子育てでした。
入学し、勉強を始めてからの数ヶ月で、私の生活リズムは完璧に整いました。
最早、ひとり旧日本海軍状態です。
月月火水木金金。育児!勉強!ちょっと寝る!起きろー!
でしたので、筋肉は鍛えられませんが、頭と心は痺れるほど鍛えられた気がします。
そうは言っても、心が折れそうになった瞬間は、3回もありました。
事件その1、『自己愛パーソナリティ障害であろうクラスメイトに、ガン無視攻撃される。』
なんだか、同い年だったこともあってか、成績が上の私のことが気に食わなかったみたいです。
ガンつけてくるのに、私のことだけは挨拶ですら、無視。他の生徒とは仲良く話す。というね。
当時28歳にして、まさか思春期女子あるあるみたいなことにぶち当たるとは思いもよらず、結構キツかったです。が、結局、彼女は定期試験に落ちていつの間にか教室から消えました。
事件その2、『まじで疲れる。』
秋頃、気力体力ともに、結構限界ギリギリでした。夜、お皿を洗いながら気付いたら倒れていたこともありました。(低反発クッション性のキッチンマット、敷いといて良かったです。)
もうやばい!疲れた!やばぁぁぁい!お?辞めちゃおうか!?辞めるか!!と思った時、
担任の先生に相談し、思い切り泣かせてもらい、救われました。
そしてその帰り際、ふとロビーの外を見ると、隣にある工学院大学の校舎ビルが見えたのです。
その大学は、かつて母方の祖父が40代にして、朝〜夕方は大工として働きながら、仕事の後に夜学で通った大学です。
そこで一生懸命勉強し、一級建築士を取得、設計士・建築士になった場所だったのでした。そのエピソードを思い出すと、
「お前も頑張ってみろ。負けるな。」
そう、この前年に亡くなった祖父が言ってくれるように感じたのです。
(祖父に負けたくない。)
そんな闘志が湧き、なんとか辞めずに済みました。
事件その3、『国家試験1週間前、まさかの食中毒に。』
オワタ、、、。詰んだ、、、。
と、思いました。勉強したくても、1週間吐気と腹下しとの死闘だったので、テキストを持つ手の力も無く、一問一答集を枕の横に置いて眺めるしかできませんでした。
ここまできたらもう、悪あがきもできず、それまでの頑張りを信じるしかありませんでした。
運よく、前日の昼頃に回復し、国際展示場の試験場まで行くことができました。
その時は、若干、神様っているのかもしれん…。とまで思いました。
そんなこんなで、国家試験には合格しました。
おー、めでたし、めでたし!だったら良いのですが…、
夏に続いての「実習」2回目があるわけです。国家試験の後に…。
そこでなんと、最大の難関が訪れました。
【悲報】『現場の実習指導員が、超パワハラ。』
この期に及んでー?!どういうことー?!どんだけー?!でした…。
あることないことを憶測で言いふらされるわ、無視されるわ、中傷的な言葉を浴びせる面談で拘束されるわ。
パワハラ?というか、あれは、「いじめ」です。
さすがに私も酷いと思い、学校の先生に相談して救われました。
実習指導員のOKが出ないと実習が不合格になり、単位が取れないことに。
つまり、せっかくの国家試験の合格も、チャラになってしまうのです。
なので、先生が角が立たぬよう、うまいこと守ってくれましたし、私もやることはやりました。
ちなみにその実習指導員の口癖は、
「周りはバカばっか!」
今思うと、サイコパスかな、と。笑
とにかくあの時、ブチ切れたりバックれたりして、全てを台無しにしなかった自分を褒めたいと思います。(もし職員としてやられたパワハラだったら、闘えていたので残念です。)
これで晴れて1年経過。
3月。
合格証書が届き、「私は社会福祉士です」と称することができるようになったのです。
さて、このように長々と経緯をお伝えしたのは、理由があります。
その理由とは。
「初めてづくし。怖かったけど、やれば、できた。」
これがあの1年に、めいいっぱい、凝縮されていたからです。
つまり、「最高に濃厚な成功体験」を経験できた。
これが、私の自己肯定感を爆上げしてくれた最大の理由です。
また、「爆上げ」と表現しましたのは、
そもそも私の自己肯定感が、マイナススタートだったからです。
だって、このたった4年前の私は、前のブログに書かせて頂いたように、
自ら走馬灯を見る。という極地までいった人物だったから。
「子どものために、頑張れた。」
それは間違いではないですが、これだけでは、なんとなく美談すぎる気がします。
結局、私は私のために、頑張った。負けたくなかった。
将来、娘にいい感じの背中を見せたい見栄もあった。
私は私の人生を、もう一度だけ、諦めたくなかった。
そういう1年だったのだと思います。
自己肯定感。
これは、「自分を好きになること」だけではありません。
ちびりながらも、ビビって震えながらも、涙で目が腫れながらでも、
恥ずかしくて、情けなくて、格好悪くて、
そんな自分から、逃げ出したくて仕方がない。
そんな時こそ、
自分から逃げずに、自分を受け入れ、自分と共に歩んでいくこと。
それが、自己肯定感の正体です。
なので、もちろん今でも、私は自分の中に大嫌いな自分もいます。
割と好きな自分もいます。自信のある自分もいます。
そして、許せない自分も、少しいます。
でも、全て、自分です。
そんな自分の手を、離さずに、生きていく。
そういう毎日を送っています。
ここまで長い文章を読んで下さりました皆様には、
「無理」をして欲しいわけではありません。
「格好良くなくても、自分を生きてみる。」を、してみて欲しい。と、思うのです。
年齢も、性別も、障害や疾患、学歴も、職歴も、家族構成も…、
何もかも、関係ありません。
確かなのは、今ここにいるのは、「あなた」でしかない。それだけは平等に同じです。
「あなた」を、諦めない。これも皆、平等に与えられた権利です。
その権利を、手放したくない、あなた。
その、あなた、にとって、
応援団長、縁の下の力持ち。私はそうありたいと願っています。
ここまで読んで頂き、ありがとうございました!
それでは皆様。今日も、明日も、「ゆるゆる」と。
喜多野より。